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《エリーゼのために》のエリーゼはテレーゼではありません
”Elise”of Beethoven can not be "Therese"

初出:2017年8月22日ココログ
《エリーゼのために》の「エリーゼ」は「テレーゼ」ではありません。
基本的な内容は拙著『知って得するエディション講座』(2012)にも書きましたが、
その後もテレーゼ説がまかり通っているので、改めてここにも掲載することにしました。
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それにしても「エリーゼのために」という曲は、とても人気がありますね。うちの女房の生徒さんでも、子供にも大人にも、この曲を弾きたがる人はたくさんい らっしゃいます(それで別 稿のような本が生まれた訳ですが)。

ネットにもたくさんの情報があふれています。
そんな中で目に付くのは、

「エリーゼ (Elise)」というのは「テレーゼ(Threse)・マルファッティ」という人のことで、ベートーヴェンの筆跡が読みにくかったために「エリーゼ」として広まったのだ

 という説です。

 1923年にウンガー(Max Unger)という学者が発表したもので、日本語のWikipediaなどでもこの説が「有力視されている」と書かれているのですが、この曲が世に出るまでの経緯を確認し てみると、この説は絶対にありえません。「エリー ゼ」は「テレーゼ」の読み間違いではなく、「エリーゼ」という人がいたは ずなのです。

 近年の研究で、当時ベートーヴェンのまわりに「エリーゼ」と呼ばれた女性が確かにいた、ということが判明しました。にもかかわらず、我が国では 未だに「テ レーゼ説」がはびこっています。そこで「なぜテレーゼではあり得ないか」をご説明しておきたいと思います。

 「エリーゼのために」という曲は、1808年にスケッチが作られ、1810年に作曲されました。スケッチは今ボンのベートーヴェン・アルヒーフ にありますが (ネットで見ることもできます)、残念ながら完成稿の方は、今では行方不明になっています。この曲は、いったん完成したものの、出版されることも公に演奏され ることもなく、その後半世紀あまり、世に知られぬまま埋もれていました(注)。

 この完成稿を発見し、世に出したのが、ノール(Ludwig Nohl)というベートーヴェン研究者でした。1867年に出版した「新しいベートーヴェンの書簡集 Neue Briefe Beethovens」(1867)という本の中で、初めてこの曲を出版したのです。初版の最初のページは英語版やドイツ語版のWikipediaで確認できますが、ここ にも貼っておきます

elise_erst

最初の33というのは書簡集の中の番号で、曲のタイトルは付いていません(目次には「イ短調のピアノ曲」とあります)。楽譜の下に詳細な注が付いています。

 この未知の遺作は、重要でとても素敵なピアノ小品で、テレーゼ・フォ ン・ドロス ディック夫人(旧姓マルファッティ)の遺品としてミュンヘンのブレドル嬢に贈られたものの中からたまたま見つかったものである。だが、これはテレーゼ のために書かれたものではなく、ベートーヴェンの筆跡で『エリーゼのために、4月27 日、記念として、L. v. ベートーヴェン』という上書きが記されている。――エリーゼが誰のことかは、[テレーゼの妹である]グライヒェンシュタイン男爵夫人も覚えていなかった。しかしこれもま た、美しい茶色の巻き髪を持つテレーゼと大作曲家との素敵な関係を示すものとして、ここに掲載する。

 ノールはこの2年前に最初のベートーヴェン書簡集を出しており、そこに収められなかった手紙を調査しているときに「エリーゼ」の楽譜を発見し、 2冊目の書簡 集の中で出版しました。最初の書簡集には400篇、新しいものには322篇の書簡が収められています。700以上のベートー ヴェンの自筆の手 紙を読み解き、書簡集を出版した人が、EliseとThereseを読み間違えるなんてことがあるでしょうか。私はありえないと思います。

 注釈にあったように、ノールは「エリーゼ」の楽譜をテレーゼ・マルファッティの遺品の中から見つけました。もし楽譜に書いてある名前が読みにく ければ、まず 「テレーゼ」ではないかと疑うのが当然でしょう。二人の「素敵な関係」にまで言及しているのですから。でもノールはそれをせず、テレーゼの遺族に「エリーゼと いう人を知らないか」と訊ねたうえで、「分からない」という結論に達したのです。

 ノールは疑問の余地なく「エリーゼ」と読んでいた。テレーゼの妹も、エリーゼについてもその曲についても知らなかった。もしそれがテレーゼに捧 げられたもの なら、妹は当然知っていた(覚えていた)のではないでしょうか。

 どう考えてもテレーゼのはずがないのに、この曲が世に出てから半世紀以上を経てウンガーが言い始めた「テレーゼ説」がその後いろんな解説などで 言及され続け てきたのは、それ以外の説が出てこなかったからです。テレーゼ説が有力だったからではなく、この曲が世に出た事情をあまりよく知らない人たちが孫引きを重ねた 結果、「テレーゼ説」は広まってしまったのです。

 そこに2010年、コーピッツ(Klaus Martin Kopitz)という人が、「エリーゼと呼ばれた女性が確かに当時ベートーヴェンの周辺にいた」ということをはじめて明らかにしました。当時17才で、後に作曲家フンメル の奥さんになるソプラノ歌手エリーザベト・レッケル(Elisabeth Rockel)。エリーゼはエリーザベトの略称です。ベートーヴェンは彼女のお兄さんと1806年頃からの知り合いで、彼女とも1810年頃まで交流があったことが分かっ ています。「エリーゼのために」のスケッチから作曲までの期間は、この時期とぴったりあてはまります。

 一方、テレーゼとベートーヴェンは、この曲のスケッチが書かれた1808年の時点では、まだ知り合っていません。もし「エリーゼ」がテレーゼの ことなら、 ベートーヴェンはテレーゼと知り合う前に着手していた曲を仕上げて彼女に贈ったことになります。一方、「エリーゼ」がエリーザベト・フォン・レッケルのことな ら、ベートーヴェンは最初からエリーザベトを想定して曲を思いつき、完成させて、彼女に贈ったと考えられます。どちらが自然でしょうか。

 エリーザベトElisabethとテレーゼTherese、綴りを考えても、エリーゼEliseに近いのはエリーザベトの方でしょう。

 私はこのエリーザベト・レッケル説がかなり有力だと思うのですが、実はその後も、テレーゼの向かいの家に住んでいたピアニストのジュリアーネ・ カタリーネ・ エリーザベト・バーレンスフェルト(Juliane Katharine Elisabet Barensfeld)だ、という説や、テレーゼの甥の妻であるエリーゼ・シャハナー(Elise Schachner)だ、という説も現れています(いずれもドイツ語版のWikipediaには紹介されています)。

 こうした流れの中で、今も「テレーゼ説が有力だ」という文章が散見されるのは、おかしな話です。私は発見者ノールの、ベートーヴェン研究者とし ての能力を信 頼しています。

 「エリーゼ」がテレーゼの読み間違いだということは、絶対にありません、「エリーゼ」はたしかにエリーゼ(エリーザベト)に違いないのです。

 注:完成後しばらく経ってから、ベートーヴェンはこの曲に手を加えようと試みており、それはボンにあるスケッチに赤鉛筆の書き込みとして確認で きます。ス ケッチに手を入れたということは、改訂を試みる段階で完成稿はもうベートーヴェンの手を離れていたのでしょう。ちなみにこの赤鉛筆による改訂の試みを復元した 版もバリー・ブルックによって出版されています。

吉成 順

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